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田中君に捧ぐ


  2000年、田中君のご実家からお母様の手紙とシクラメンの花が送られてきた。田中君は卒業後暫く一人暮らしをしていたが、体調が悪化し亡くなられたと書いてあった。亡くなる前に「農工大で勉強できて良かった」と話していたのでそれを伝えます、とのお母様のお言葉が綴られていた。
           ―田中君に捧げる高圧水蒸気熱処理技術―
  1996年3月北朝霞の東洋大学での応用物理学会で聴いた講演内容は一切記憶に無い。田中君の卒業研究の結果がずっと気になっていた。私は前の会社で同僚と共に多結晶シリコン薄膜の欠陥低減技術である水蒸気熱処理を開発した。水蒸気中で350℃に試料を加熱するだけの簡単な手法であり効果があった。多結晶シリコン薄膜のみならずSiO2絶縁膜にも効果があった。だから両材料を使って作る結晶シリコン薄膜トランジスタの電流を増大できる有効な手段として注目された。事実、水蒸気熱処理は抜群の効果を発揮した。サウナのように試料を蒸すだけだから楽珍で、しかも特性向上抜群。こんなにいいことはない。大成功だ。これで高性能のトランジスタを作製できる目処がついた。会社を辞め大学に移ってからも水蒸気熱処理の研究に邁進した。
  田中君は大学在籍8年目で私の研究室に入ってきた。遊び人だったわけじゃない。難病を患い大学在籍の半分は入院生活だったからだ。じゃんけん大会に敗れ、大学在籍最終年によりによって最も厳しく最も不人気の研究室に入る羽目になった。なんて彼は不運なんだろう。体は細く手足は普通の学生の半分くらいの太さしかない。生活するだけでも大変に思えるのに果たして厳しい卒業研究に耐えられるのだろうか。田中君と面接をした。病気は治っていない。通院が欠かせない。しかし田中君は絶対に卒業したいという。健常学生と同等に扱ってくれと言い張る。同情や温情は要らないと言う。困った。結局水蒸気熱処理の研究に携わってもらうことにした。
  まだ試していないことがあった。水蒸気熱処理後のシリコン薄膜の電気特性を、1年を通じて調べる仕事だ。半導体のプロセスは通常処理時に特性が決定される。その後試料を常温に長時間維持しても特性は変化しないと信じられている。しかし開発中の技術の場合、それを安易に信じてはいけない。実際に追跡調査が必要だ。少なくとも5000時間は調べなければならない。できれば温度と湿度を一定にしたい。田中君には温度、処理時間の異なる10種類の水蒸気熱処理条件を行って経時変化を調べるための試料を作ってもらうことにした。
  まず試料保存室を作ってもらった。アルミホイルで作ったテントの中に50Wの白熱球を入れて点灯できるようにした。保温のためである。シャーレを用意し、水を張り、中にガーゼを入れてテントの底に設置した。湿度を保つためである。ガーゼの上に厚いガラス板を置いた。試料が水に直接触れないようにするためである。水蒸気熱処理後のシリコン試料をガラスの板の上においてテントを閉じて保管した。温度計と湿度計もテントの中に入れた。テントは試料の数だけ必要だったが、修士1年吉冨君の献身的指導のお陰で、田中君はこの準備を2ヶ月で終えてくれた。そしていよいよ計測を開始した。まず試料の水蒸気熱処理前の測定をする。電気伝導率測定のみならず、可視紫外域の光学反射率、透過率スペクトル測定及び赤外吸収測定をする。一つの試料で全ての測定をするのに半日はかかる。10試料あるから軽く1週間かかる。毎日測定をして、やっと1週間ごとのデータが取れる。かなり厳しい作業だ。
  田中君は良く頑張ってくれた。しかしいつも苦しそうだった。顔色は悪く、気持ちで体を引っ張っている様子だった。結局卒業研究期間中に田中君は一週間の入院を二回した。病状が悪化したのだ。仕方がない。データは他の学生さんに測定して貰うことにした。 そして休みの残り時間で実験計画を作り上げた。
  ある朝実験室に調べ物をしに入ったところ水蒸気熱処理作業場の状態がおかしいことに気が付いた。毎日私は研究室に一番早く出勤する。しかし昨夜帰りにチェックしたときとテントの位置が変わっているではないか。一つのテントは傾いて試料を上手くカバーできていない。おかしい。昨夜帰り際に見たときには異常はなかった。夜20時以降は実験をしない約束だ。実験しなくて良い有利なルールを学生が破ることはない。暫くして学生達が登校してきたので、昨夜誰かが実験室を使ったのか聞いてみた。皆言いよどんでいる。本当のことを言え、と強く迫ると話し出した。なんと田中君が入院先の病院を抜け出して研究室に実験しに来たという。実験の遅れが気なったと言ったそうだ。
 かぁ~と血が頭に上った。自分の体を大切にせず、いったい何を考えている。病院に許可を取らず外出先で倒れでもしたら取り返しが付かない事態になる。研究熱心は良いが自分の体と引き換えにするできるものはない。退院後の田中君に滾々と説教をした。聞いているような、聞いていないような。その後も田中君は黙々と実験を続けて経過観察データを取ってくれた。ところが2000 hを越えた辺りからデータが怪しくなった。水蒸気熱処理効果が薄れて、データがだんだん初期値に戻りつつある。そんなはずはない。測定の都合だろうか。測定者の問題か。そうこうする内に4000 hになり、データは水蒸気熱処理前に戻ってしまった。厳しい現実だ。仕方がないので田中君にはそのままデータをまとめて貰い、卒業発表となった。
  どうしたらよいだろう。絶対上手くいくと信じた技術が使えなくなった。命がけでデータを取ってくれた田中君の努力に応えるためにも何とか危機を脱する策を練らなければならない。講演会3日目の昼休みに東洋大学の研究棟の傍らに佇みながら外を眺めて考え続けていたとき、なぜか研究室の真空装置が頭に浮かんだ。具体的にはステンレス製の真空フランジが頭に浮かんだ。銅のガスケットを挟んで締め付けると真空が保てる優れた部品だ。これまで真空装置作りに何千回、何万回も使った部品だ。そして真空とは全く反対のアイデアが浮かんだ。そうだ、フランジを削って試料と水を入れて、もう一つフランジを使って封じよう。そうして加熱したら水蒸気熱処理ができる。水は逃げないから高圧の水蒸気熱処理ができるだろう。高圧なら水分子が沢山ある。300℃以下の低温処理でも欠陥低減反応が上手く行き、安定で変化しない処理ができるかもしれない。フランジは研究室に沢山ある。工作室もある。早速作って試してみよう。
  研究室に戻り吉冨君を呼んでアイデアを説明した。彼は秋田出身の成績優秀な努力家だ。入学以来学寮に住み、秋に実家の収穫を手伝うために週末帰省する以外はずっと研究室に来て頑張ってくれている。吉冨君は直ぐに承知してくれてフランジを旋盤で削り、1週間で高圧水蒸気熱処理装置を組み立ててくれた。
  早速試したが結果は失敗だった。市販の銅のガスケットは水蒸気を浴びて酸化して真っ黒になりフランジも試料も真っ黒になって使えなくなってしまった。2日間考えた後、アルミ板でガスケットを作るアイデアを思いついた。アルミの表面はアルミナで覆われていて安定である。吉冨君はアルミの板を使ってガスケット作りに取り掛かった。私はガスケットを作ったことがない。設計ができないので試行錯誤を繰り返し2週間かけてなんとか使えるガスケットが出来上がった。試験結果は素晴らしかった。260℃、13気圧の水蒸気熱処理が可能となり、欠陥は劇的に低減した。そして時間が経っても元に戻らなかった。むしろ時間がたつにつれて減少した。そして有名な論文Jpn. J. Appl. Phys. 36 (1997) L687-L689を成し遂げることができた。
  その後、多結晶シリコン薄膜、アモルファスシリコン薄膜、SiO2絶縁膜と界面、あらゆるものに高圧水蒸気熱処理を適用した。そして全ての欠陥低減を達成した。高圧水蒸気熱処理は鮫島研究室の目玉研究となった。高圧水蒸気熱処理装置は世界中の研究室で使われるようになった。現在、鮫島研究室の高圧水蒸気熱処理装置はチタン製になり、ガスケットはカルレッツというゴムのリングになっている。洗濯機程度にとても使いやすく便利になった。田中君の命がけの貢献を忘れることはできない。