1991年11月19日フロリダ半島の付根にあるオーランド空港に降り立ったのは夜の10時を過ぎていた。飛行機遅延で1時間遅れでの到着だった。研究会で招待講演を行うために、これから開催地のパームビーチまで移動しなければならない。公共交通機関がないので予めリムジンサービスを予約しておいた。手荷物受け取りの出口で待っていてくれるはずだ。バッゲッジクレームでスーツケースを取り上げて出口に行き、私の名前を書いたカードを持った人を探したが其れらしい人は居なかった。暫く待った。10分過ぎた。おかしいな。小さな空港だ、待ち合わせ場所はここしかないはずだ。さらにもう10分待ったがリムジンサービス屋さんらしき人は居ない。だんだんと行きかう人が少なくなっていく。心配になったが、初めての訪問地で現地のシステムが全くわからない。困った末に通りがかった空港警備員に相談してみることにした。
「すみません、パームビーチに行くためにリムジンを予約しているのですが、運転手と出会えません。待ち合わせ場所が違うのでしょうか。これが予約書なんですが。」
と話しかけた。制服を着た黒人の大男は笑顔を浮かべて、
「どれどれ、はあ~、なるほど、う~ん―――――では私が電話してあげましょう。」
と制服の胸ポケットから携帯を取り出して電話をしてくれた。彼は随分長くなにやら話をしていた。そして漸く電話を切ると私に向かって、
「リムジンドライバーは来ないよ。あなたの到着が遅れたので30分待って帰ったとのことです。」
「!」
「え、そんなの理解できない。ここは空港ではないですか。飛行機は遅れるでしょう。遅れたら待つべきでしょう!」
「いったい私はどうしたらいいんですか」
身長190cm、体重少なくとも100kg以上あるだろう警備員に私は必死で訴えていた。彼は
「ふ~ん・・・」
と言ってちょっと考えた様子だったが、
「じゃあこちらへ来てください」
と私を階下へ促した。ああ、良かった空港の警備事務所に連れて行ってくれてリムジン会社ともう一度交渉してくれるんだな、と私は安心して彼に付いていった。階下は駐車場と道路だった。暫く歩いて一台のランドローバーの前で彼は止まった。
「向こう側のドアを開けて乗ってください。」
「え、これに?」
「そう、乗ってください」
事務所が遠いので車で送ってくれるのかな、ちょっと不安になりつつ助手席に乗った。彼も運転席に乗ってきた。時刻は11時を回り、行きかう人は全く無い、車も見えない。運転席で彼は制服を脱ぎ始めた。私が目を丸くしていると、
「私がパームビーチまであなたを連れて行ってあげますよ。」
「えっ、まさか、ここから120kmありますよ。それにあなた空港の警備員でしょ。空港にいなければいけないでしょう。」
「ええ、大丈夫、いいんですよ。」
車はすぐさまスタートした。いや~、あんたが良くても私は良くない。あんたはいったい何者だ。困った、これは事件かもしれない。日本から来た会社員の小男。リムジンを予約するほどの小金持ち。カモではないか。どうしよう。まずい、最悪でも生きて私は日本に帰りたい。アメリカに着いたばかりだから財布の中の現金は未だ使っていない。小金はある。要求されたら差し出そう。銃を持っているかな。銃で撃たれないように、偽警備員ドライバーの機嫌を損ねないようにしよう。そうだアメリカでも殺人は重罪だ、簡単には使わないだろう。無理にジョークを飛ばしながらなるべく陽気に振舞うことにした。車は空港を出てインターチェンジに差し掛かった。偽警備員はまた電話を取り出して誰かと話し始めた。内容はよくわからないが楽しそうだ。時速70マイルと表示がでているが彼はハンドルを殆ど握っていない。危ないじゃないか、事故を起こしたらどうする。はらはらしたが、彼は運転が実に上手かった。電話を切ると
「ガソリンを入れます。」
といって、高速道路を出てガソリンスタンドに入った。彼は車を降りてガソリンを入れ始めた。私も車の外に出てみた。明かりはあまりなく辺りは暗い。建物はまばらだ。アメリカの町では普通の光景だ。空を見上げてみた。星は殆ど見えなかった。漆黒の夜空。今日が最後になるかもしれない異国の空。隣にはガソリンを入れている黒人一人。事件現場に相応しい夜のガソリンスタンド。ちょっと可笑しくなってきた。想定外。可笑しい。面白い。あまり心配しても仕方ない。用足しでもしよう。ガソリンスタンドのトイレを借りて車に戻った。運転手も戻ってきていざ出発。オーランドのミッドナイトランと行こう。高速をぶっ飛ばして早くパームビーチに連れて行ってくれ。えつ、何処にいくの?車は動き出しが寂しい街中に入っていく。
「ねえ、高速道路はあちらじゃないですか。」
「ええ、友達を一人連れて行くんですよ」
え~、また寄り道~。暫く走ると暗がりに貧しい家並みが見えてきた。だだっ広い敷地に掘っ立て小屋が並んでいる。危険な貧民街かもしれない。しかし小屋を眺めていると、4歳頃に住んでいた自分の家を思い出した。
「か~ちゃ~ん、おやつ~」
毎日外で駆け回って遊んではお腹が空くと家に走って帰ってきた。泥だらけの足のまま家に駆け込んだ。たった二部屋の小さな家、地面の上に直に建てられた小屋だ。庭はない。何処までが自分の家なのかわからない。子供の私には見渡す限り全てが自分の敷地だった。この世のパラダイス。時々は小さな窓から家に入った。怒られたが子供の私には小さな玄関に回りこむより窓のほうが便利だった。祖母両親兄弟6人がその小屋に住んでいた。熊本県天草志岐の父が通う小学校の官舎だった。確か同じような小屋が3つあり3世帯が住んでいた。みんな仲がよかった。子供たちは子猫や子犬のように遊んだ。しょっちゅう怪我をし、しょっちゅう病気をした。いつも泥だらけだった。親父は厳しかった。げんこつは痛かった。祖母さんは優しかったがいつも愚痴をいっていた。母親はいつも忙しそうだったが私は甘えに甘えた。怒られた。慰められた。楽しい目まぐるしい毎日だった。
物思いに耽っていると、黄色い色に塗られた小屋の前に車が止まった。運転手は車を降りて小屋に入っていった。暫くして小屋からでてきた。長身の若い男が一緒に出てきた。そして車の後部座席に乗り込んだ。灰色のスポーツ用のジャージを着ていた。
「やあ、こんばんは」
「やあ」
私たちはお互い短い挨拶を交わした。彼は眠そうで車に入ると直ぐ後部座席で横になってしまった。
「じゃ、出発しましょう」
運転手が言って車は動き出した。私に幼い頃の思い出を呼び覚ましてくれたオーランドの貧民街よ、さようなら。無事にパームビーチに着けますように。車はアメリカの6車線の高速度道路をカーチェイスさながらの勢いで突っ走った。私は良く喋った。運転手も楽しそうに話した。南部訛りの命がけの充実した英会話の練習。遂に警備員の車はパームビーチに着いた。辺りは真っ暗。マイアミの青い空が訪れるにはまだ早すぎる少し時間だ。後部座席の若い男は目を覚ましていたが物静かだった。
「ホテルは何処ですか。」
運転手はホテルの場所を知らないようだった。若い男も知らなさそうである。リムジンを予約する男が知っているはずはない、私は子供の絵のような簡単なホテル周辺の地図を印刷して持っていた。それを頼りに2回間違えた後私の目指すホテルに着いた。玄関の前で車は止まった。リムジン料金の3割増しの現金を払い丁寧にお礼を言った。明かりが全くない玄関のブザーを押した。ホテルマンが来てくれた。安心した。私のオーランドのミッドナイトランが終わった。疲れた、緊張した。でもブロードウェイの観劇より有意義な体験だった。
私は偶然にも親切なアメリカ人警備員に出会った。そして警備員は頃合い良く遠出に向いた大きい車と帰路の運転を担ってくれる友人を持っていた。アメリカ人の親切が身にしみた出来事だった。今でも昨日の事のように憶えている。